スポンサーリンク

ミリオン超えの作編曲家Akira Sunsetさんが活躍し続けられる理由

この記事は約14分で読めます。
この記事にはアフィリエイトなどPRが含まれています

自身のユニットSafariiとして2007年ハワイでデビューし、翌年、Sony Music Recordsからメジャーデビュー。その後、乃木坂46への提供楽曲「気づいたら片想い」や作編曲を行った「今、話したい誰かがいる」「ハルジオンが咲く頃」が年間オリコントップ10入りを果たし、現在は株式会社ホバーボード代表取締役として作家事務所を率いるAkira Sunsetさん。そのAkiraさんが音楽を始めたきっかけや作曲を始めた理由、そしてどのようにして第一線で走り続けるプロになれたのか伺ってきました。

また現在は、後輩作家の育成にも取り組んでおり、最近は一線で活躍する作編曲家が直接指導や育成を行う「Dr.BROWN」というアカデミーを開講。最短最速で即戦力としてプロ活動をスタートすることができるという、こちらの作曲スクールについても聞いてきました。

HOVERBOARD Inc,代表取締役Akira Sunsetさん

スポンサーリンク
スポンサーリンク

20歳から本気で音楽を始めた

--まずはAkiraさんが音楽を始めたきっかけについて教えて下さい。
Akira:子どものころに、合唱コンクールでのワンコーラスソロのパートをもらえて、自分は歌がうまいのかな、と思ったのが一番最初ですね。それが小学3年生ぐらいのころで、5年生のころには普通に音楽を聴くようになり、中学生からはギターを持って、という感じでなんとなくミュージシャンになるんだろうなと思っていました。とはいえ、ギターは買ったものの、歌がメインだと思っていたので、楽器はそこまで追求しておらず、tab譜を見ながら練習するものの、途中で諦めて投げ出していましたね。中学1年生、2年生のころは、歌を歌いたいわけだし、楽器は練習しなくてもいいやと思っていたのですが、中学3年生で尾崎豊の曲に出会って、弾きながら歌えるんだなと知り、そこからアコギの弾き語りを練習していました。

--小学生で音楽の楽しさを知って、中学生のころには楽器を弾き始めていたんですね
Akira:その後、高校に入り、文化祭で歌ったときに、当日来てくれていたPAさんが事務所も運営していた人で、その人にスカウトされる形で、音楽業界にちょっとだけ入り始めました。といっても、当時やっていたバイトの方が楽しくて、事務所はすぐに辞めちゃったんですよね。その後卒業して、20歳ごろに本気で音楽を始めるキッカケがありました。それがASAYANというテレビ番組で、同い年の堂珍嘉邦さんと川畑要さんが出ていることを知ったことです。番組を観て、めっちゃ悔しくなって、絶対俺のほうがいいでしょ、って。そこから芸能事務所とかオーディションにひたすら応募するという期間がありましたね。

--高校卒業後は、音楽の専門学校などに行かれていたのですか?
Akira:いや、中学高校とずっと音楽漬けだったので、ちょっと違う世界はないかな、と思って美術系の専門学校に行きました。正直、なんかかっこいいかな、というくらいの思いで行ったので、全然面白くなかったですね。結局、中退して、オーディションを受けまくっていたのですが、本音をいうと当時曲作りしたくなくて…。高校生のころに3曲作って、しんどいなと思って、ずっと誰か作ってくれないかな、って思っていたんですよ。その時代は、俳優さんが曲を作ってもらって、デビューするということがすごく多くて、これ俳優になって売れたら、誰か作ってくれるんじゃないかなと思っていました。なので、俳優でオーディションを受けていて、いつも最終まで行くんですけど、特技を見せてくれ、といわれたときに、しょうがないから歌うという感じだったんですけど、デビューには至らず。本当に最後まで行くのですが、何も決まらず、そこで腹決めて、やはり曲を作るしかないか、と。

--曲作り自体は高校生のころから始めていたんですね。どんな方法で作っていたのですか?
Akira:結局今も同じ作曲方法ですけど、アコギ弾き語りで、コードと歌詞付けて、1人で歌うみたいな感じですね。振られた彼女に向けて、「浮気してごめんね」、みたいな歌を高校の文化祭で歌って仲直りしていました(笑)。そんな感じで高校1年、2年、3年と毎年1曲、計3曲作ったという。歌い始めた原体験がそこで、体育館ってめっちゃ広く、あれZeppぐらいの大きさはあるんですよね。そこですごく気持ちよくて、音楽の道に進みたいなとなったんだと思います。オーディションを受け、養成所にも入るけど、自分が求めている道とは違って辞めたりしていた中で、当時ちょうどインターネットが流行り始めていて、そこでDTMと出会うんですよね。

--そこからDTMも取り入れた作曲になっていくんですね。
Akira:まだHDDの接続がSCSI接続のころですね。Macを買って、最初にCubaseを買ってインストールしたんですが、当時は今みたいに簡単に音を出せる時代じゃなかったこともあり、すぐに挫折。一方でネットで、バンドメンバーを探している掲示板があって、そこでメンバーを見つけ、バンドを始めました。実はそのバンドは5年ぐらい続いたんですよ。そこではボーカルを担当しつつ、曲も作っていて、当時の流れもあってミクスチャバンドだったんですよ。なので、不良じゃなかったのですが、どんどんグレたみたいな見た目になって、ダミ声でラップするみたいなことをしていましたね。ちょうど、Dragon Ashが流行ったちょっと後ぐらいの時期だったと思います。で、そのバンドで活動しているときに、ケツメイシのプロデューサーであるYANAGIMANさんと知り合ったんです。無償で本当にいろいろ教えてもらって。

25歳で初のメジャーデビュー

--そのバンドで、デビューした形なんですか?
Akira:インディーズバンドで、どことも契約していなかったですね。メンバーは10歳ぐらい上の人たちで、実力は高いんですけど、みんな慎重で…。こっちは早くデビューしようよ、という感じだったのですが、結局インディーズでの活動のままでした。その後、25歳ごろにバンドは解散して、そろそろ働かなくちゃいけないかな…と思っていたころに、YANAGIMANさんから声を掛けていただいたんです。「僕プロデュースでソニーから新人出すんだけど、人が足りないからオーディション受けてみないか?」という形で。それで、ソニーに行ってオーディションを受けたのです。実は音楽系のオーディションは初だったのですが、ほかにいい人が見つかっていなかったようで、ほぼスカウトみたいな形でした。行ってみると、ただの会議室で歌うだけだったのですが、「来週熊本行くから、予定全部空けてね」って。いやいや、5年も6年も大変な思いをしてきたのに、決まる時はいきなり決まるんだな、と。そんな形でメジャーデビューとなったのです。

--そのメジャーデビューは、どんな内容だったのですか?。
Akira:4人組のユニットで立ち位置としてはボーカルとラップの担当でした。当時ケツメイシフォロワーみたいなのが、いっぱい出てきた時代でしたね。ここから、少しずつDTMを使った作曲をすることになるんですけど、いろいろ大変でした。メンバーにトラックメーカーがいたので、そいつがトラックを作って、僕が曲を作るというはずだったんです。ところが、そのトラックメーカーが全然働かなくて…。仕方ないから僕が全部作ることになり、ギター1本で曲を作っていったんですが、やはりそれだけではダメ。ただDTMの技術も進み、GarageBandで、簡単な打ち込みとコード進行を入れることで、ある程度のことができるようになってきたんです。一方でアレンジャーは別にいたので、そことやり取りしながら完成させていきました。そういう意味では、今とほぼ同じスタイルが、その時点で確立した形ですね。結局ファーストのカップリングから、ほとんど僕が作っていましたね。もちろんそんな状況は続くわけもなく、1年ぐらいで解散してしまったのですが。

--そのユニット解散後は、どうしていったのですか?
Akira:結局、「お前曲作れるし、もったいな」となり、そのユニットのメンバーの1人とSophiaというエチオピアハーフの女の子を入れて、活動していくことになるんですよね。それが2007年ごろのことで、最初ハワイでデビューして、2008年にSony Music Recordsからメジャーデビューしました。Safariiというユニットだったのですが、ちょうど着うたブームに乗れて、3枚目のシングル「この恋にさよなら」という曲が、たしかトータルで100万ダウンロードぐらい行ったと思います。とはいえ、このユニットも2012年ぐらいで解散することになりましたね。ソニーはめちゃくちゃ優しいので、次のことまでちゃんと考えてくれていて、「お前作曲家やれよ」みたいな流れで、今に繋がってくるんですよ。

--ちなみにそれまでは、JASRACとの付き合いはどういった形だったのでしょうか?
Akira:これ、本当によくないことなんですけど、誰も教えてくれなかったから、知らなかったんですよ。出版社からは印税が振り込まれますけど、JASRACが介在していることすら知らないし、会員になれることすら知らなかったです。僕がJASRAC会員になったのは、その後のことで、つい6、7年前のことなんですよ。本当にお金に関することを誰も教えてくれなかったですね。当時はA&Rも「お前、これめちゃめちゃ入ったんじゃないのか?」みたいな感じで、数字についてもほとんど把握していなかったので、まあそういう時代だったんだと思います。

作家としての初の作編曲作品の乃木坂46「そんなバカな…」は、ProToolsの標準搭載音源だけで作った

--話を戻しまして、そこから作曲家になったとのことでしたが、その時点でアーティスト活動はしていたのですか?
Akira:解散後、インディーズで1枚作ったりしたのですが、予算もなかったので、アーティスト活動は休止していました。作曲家としてのスタートは、ソニーから「今度、AKB48の対抗馬になる乃木坂46というのが出るので、コンペに出してみたら?」って言われて。当時はまだ「コンペって何?」という状況だったのですが、とりあえず頑張って作りましたね。DAWはSafarii時代にLogic ExpressからLogic Proになっていましたが、この作曲家になるタイミングでProToolsに乗り換えました。ちなみに今はStudio Oneを使っています。乃木坂46で初めて作編曲したのは、7枚目のカップリング曲「そんなバカな…」で、この時はまったプラグイン音源などを持ってなかったので、ほぼProToolsの標準搭載音源だけで作っていました。ギターだけは弾いて録音しましたが、今みたいにプラグインも安くなかったですしね。その後のミックスやマスタリングで、ここまで良くなるのかと驚いた記憶がありますね。今聴いても、これはこれでいいなと感じますよ。

--オーディオインターフェイスなどは何を使っていたのですか?
Akira:最初に買ったものは覚えてないですけど、一番長く使っているのはApolloですね。Apollo TwinからApollo x6にして、Apollo x8になって、最近はSSL 2+もたまに使いますね。今はまた戻ってきて、Apollo Twin Xを使っています。当時はDAWの標準音源を使って曲を作っていたぐらいお金がなかったですけど、ハードだけはそこそこ高いものを揃えていた気がしますね。本格的に作曲家として活動を始めてからは、シライシ紗トリさんの作曲事務所とかにもお世話になっていたので、スタジオにあるいろいろな機材を使っていました。

--やはり乃木坂46の作曲をするようになってうまく回り出したという感じですかね。
Akira:まだ、そこから時間は掛かるんですけど、まあ8枚目のシングルを獲得したあたりから、人生変わったなと思います。「気づいたら片想い」という曲なんですけど、やっぱ表題をとりましたとなると、自分から仕事も取れるようになりましたね。僕はコンペ作家が向いていなくて、決まるまで待っている時間があるのですが、そこは動きたいなと思ってしまう性格で…。翌2015年には会社も作りました。リアルな話をすると、このころに年収が1000万円を超えたのですが、この先10年稼ぎ続けることができるかは、とっても不安に感じていました。一方で作家事務所への不満も募ってきたり……と複合的な理由から独立したのです。作家事務所って30%とか40%とか取るところが多くて、取り過ぎだろ、と思っていたんですよ。もし、この手数料を25%にしたとしても、自分と同レベルの作家4人集めれば、簡単に1000万円入ってくるじゃないか、と思ったのが、会社設立に踏み切った最大の理由ですかね。もちろん、実際には経緯や家賃など、いろいろなものがあって、そんなに簡単じゃないんですけどね……。

HOVERBOARDの設立

--ともかくこの会社設立が、今のHOVERBOARDに繋がってくるんですね。
Akira:手数料も安くて、みんなもいい環境なら全員がハッピーだよね、というのが、当初からの構想です。と同時に、僕はアレンジが苦手だったので、トラックメーカーと一緒に作ることも多く、フリーのトラックメーカーをいっぱい知っていたので、みんなをチームとして集めるような形で会社化してしまおうという感じです。また、受けきれない仕事を断るのが嫌で、会社化して回したら、お互いに助かるところもありますよね。自分をハブにみんなが回ってくれるようなシステムを作りたいなという思いもありました。

--そこから約10年経って、今この素敵なスタジオを立ち上げるまでに至ったんですね。
Akira:最初はトラブルもたくさんありましたが、ようやく完璧なスタジオを作ることができました。HOVERBOARDは、ただの作家事務所というよりも、コライト事務所なので、もともと僕みたいにシンガーで作曲できるけどアレンジできない人と、トラック作るのは好きだけど作曲するのはいまいち好きじゃない人が、うまくマッチングしてどんどん作品がうまれているので、この方向性はよかったかなと思います。最近は人も増えてきて、どちらかという人も結構多いので人が増えれば、その分可能性が広がって、みんなお金も稼げて、いい感じですね。

--今HOVERBOARDは、どれくらいの人数がいるのですか?
Akira:正式には17人所属していて、これがHOVERBOARDというブランドで、その下にYoung McFly(ヤングマクフライ)というブランドがあり、さらにその下に提携とかコンペだけ出す人たちの3段階になっていて、合わせると結構な人数がいますね。またスクールも始めたのですが、これを合わせると4段構造になっています。スクールは、1段目や2段目に送れるようにすることで、プロとして活躍できるようになってもらう目的ですね。

--かなりの人数がいるんですね。先ほど、JASRACに入ったのは6、7年前とおっしゃっていましたが、入るキッカケは何かあったのですか?
Akira:JASRACに入ってお金の流れについて知りたいなと思ったのがキッカケですね。作家仲間の間でも「JASRACに入ったら、なんか取り分が増えた気がする」みたいな声は多く、悪い話も聞かなかったので、入ろうかなと。まずは信託する形で入り、その後準会員、そして2018年に正会員になったと思います。なんとなく入ったんですが、入ってよかったのは分配明細がめちゃくちゃしっかりしていること。「この曲でこんなに稼いでいたんだ!」とか分かるのはいいですよね。JASRACに入る前は音楽出版社からの明細だけで確認していたのですが、JASRACからの分配明細と併せて確認をすることで、本当にスッキリしました。出版社さんはタイアップを持ってきてくれて、宣伝もしてくれるので、それで半分持っていかれるのは納得してるんです。楽曲制作のスタイルも変わってきているので、JASRACも出版社さんも今の時代にマッチした形にアップデートしてきてくれてるのかな。これからも期待しています!

--まだまだ難しいところも多く残っていますよね。一方で、HOVERBOARDの人数は増えて、ヒット曲もどんどん出てくるようになって、事務所的には大成功ですよね。
Akira:まだまだですけど。とりあえず、回ってはいますね。それでいうと、僕はレコ大を取ったことないですけど、メンバーが取っていて、表彰楯がいっぱいあったりして最初は複雑な気持ちでしたね。今は手放しで喜んでいますけど。まあ楽しければいいかなと。

--先ほど、オーディオインターフェイスはApolloをずっと使ってきて、今使っているDAWはStudio Oneとのことでしたが、AIツール系は使われていたりしますか?
Akira:Synthesizer Vが増えてきましたね。でも僕は、歌ってMelodyneで直すみたいな方が好きです。とはいえ、夜中に仮歌を頼むのは、向こうが自宅だとちょっと気まずかったりするので、それが解消されるのは助かります。若い作家だと仮歌代を払うのもキツイいけれど、Synthesizer Vなら1、2万円で導入できるから、すぐ回収できてしまいますよね。まあ、コンペなんかはちゃんとうまい子に歌ってもらいたいですけど、今後はもう少し使う頻度は増えるかもしれないです。

--最後に今後の目標などあれば教えて下さい。
Akira:今後、さらにいい人材の奪い合いになると感じています。だからこそ、若い才能をちゃんと伸ばしていくスクールを始めることにしたのです。正直なところスクールを作るなんて、まったく考えていなかったのですが、もうこのまま待っていても人材が確保できないなと。その分、かなり力を入れていまして、現役バリバリの遠藤ナオキと野口大志が、講師として直接教えます。直伝で教えて、半年コースを出たら、すぐ仕事を取れるレベルまで教えようとしています。そうすると、こっちも助かりますし、受講生もタラタラ教えられるより、いいかなと思うんですよね。面倒なことは全部すっ飛ばして、最短ですぐ仕事に使えることを全部教えていくという感じです。基本的なことを学んできた人が対象ですが、今後は初心者向けのコースも検討しています。一期生募集は終了してしまったのですが、ぜひチェックしていただければと思います。

--ありがとうございました。

【関連記事】
音楽制作の現場からJASRACへ意見を届ける「音楽著作権とJASRACに関するアンケート」実施中。
乃木坂46、嵐、家入レオ、中島美嘉などを手がける杉山勝彦さんがトッププロとして活躍し続けられている理由
作家というビジネスはどう成り立っているのか?ヒット曲を作り続ける杉山勝彦さんに聞いてみた

【関連情報】
HOVERBOARDサイト
Dr.Brown(スクール)サイト
JASRACサイト
JASRAC公式YouTubeチャンネル

コメント

タイトルとURLをコピーしました