昨年2020年はカシオが電子楽器事業をスタートして40周年を迎え、今年カシオが新方式音源システムの研究開発に向けて動き出しているようです。まだ、その具体的な内容は明らかになっていませんが、過去を振り返るとカシオはさまざまなシンセサイザ、しかも他社にないまったく新しいシンセサイザ方式を発明しては製品化してきた歴史があります。そこでこれまで3回に渡って、独自のシンセサイザ方式を紹介してきました。具体的には1980年発売の『カシオトーン201』に搭載された子音・母音音源システム、1984年に発売された『CZ-101』に搭載されたPD音源、1988年に発売された『VZ-1』に搭載されたiPD音源のそれぞれ。
そして今回は、1993年発売の『CTK-1000』に搭載されたiXA音源について。このiXA音源はリアルなアコースティック楽器の音も出せるPCM音源と、鍵盤を弾く強さにより音色が劇的に変化する音源、そして当時キーボードやシンセサイザに標準搭載されつつあったDSPエフェクトを組み合わせたというもの。CTK-1000タッチレスポンス鍵盤を搭載するとともに、電子キーボードの世界ではまだ珍しかった、リバーブ、ディレイ、コーラスなどのエフェクトをかけられるDSPを備えるなど、当時の最先端を行くシステムでした。そんなiXA音源が開発された背景について、前回に続き、長年シンセサイザ開発に携わってきたカシオ計算機株式会社 開発本部 開発推進統轄部 プロデュース部 プロデューサーの岩瀬広さんにお話しを伺ったので紹介していきましょう。
1993年にカシオが発売したiXA音源搭載のシンセサイザキーボード、CTK-1000
--1980年代、デジタルシンセがいろいろと開発されていく中で、やはり本命はPCM音源であり、各社ともPCMに向けて進んでいきましたよね。
岩瀬:電子キーボードの音源システムは、波形を合成する方式から、あらかじめ自然楽器などの音をサンプリングしたPCM音源へとシフトしていきました。とくにアコースティック楽器を再現するためには、PCM音源がもっともリアルであり、かつ合理的でしたから。そうした中、とくにピアノは鍵盤を弾く強さによって、音量や音色の変化が求められましたが、すでに電子ピアノにおいては、そうしたタッチレスポンスが搭載されていました。でも電子キーボードやシンセサイザの世界では、まだベロシティーを検知できないキーボードを搭載したものも少なくありませんでした。しかし時代の進化とともにベロシティーに対応するタッチレスポンス型が一般化していったのです。
前回に続きお話を伺ったカシオ計算機の岩瀬広さん
--アナログシンセ的な音源であれば、ベロシティー値をフィルタに突っ込むことで、音色も変えやすいですからね。
岩瀬:そうですね。しかし、PCM音源はリアルなアコースティック楽器の音が手軽に出せるというメリットがある一方、タッチレスポンス鍵盤との相性は、決していいものではなかったのです。タッチレスポンス鍵盤を活かすためには、グランドピアノのように、鍵盤を押す強さによって音量はもちろん、音色も劇的に変化してほしい。ところがPCM音源は、あらかじめサンプリングされた音を再生する方式なので、音色変化は、デジタルフィルタの特性を変化させることに頼る方法しかなく、その変化は地味。鍵盤を押す強さによって、異なるサンプリング音を再生させる、ベロシティースプリットという方法もありましたが、サンプリングされた波形の切り替わり目を目立たなくする必要があることやメモリサイズが2倍3倍必要となるという問題がありました。
PCM音源とタッチレスポンス鍵盤、DSPエフェクトを組み合わせたiXA音源を搭載したCTK-
--今ならいくらでもサンプリングデータを利用できますが、メモリが非常に高価な当時は、ベロシティースプリットなどはかなり贅沢な手法ですもんね。
岩瀬:そこで、リアルなアコースティック楽器の音が出せるPCM音源と、鍵盤を弾く強さによって音色が劇的に変化する音源を組み合わせるという方法を考案したのです。さらに当時キーボードやシンセサイザに搭載されつつあったDSPエフェクトも組み合わせた音源として開発したのが、iXA音源です。iXAとはintegrated X Sound Architectureの略。その当時の音源名を協議していたときの資料を紐解くと、2種類の音源(PCM、非線形音源)とDSPを相互に作用させるという意味を込めて、こう名付けていたようですね。
iXA音源の名称由来、開発資料
楽器的な音色変化のセオリーとしては、音が弱いときは倍音成分が少ないサイン波に近い波形であり、音が強いときは倍音成分が豊かな波形であることが自然です。アナログシンセもこの原則にしたがうことを基本にしています。同様にヤマハのFM音源もこのセオリーにしたがった設計をされていたと思います。こうした音源設計をすることによって、鍵盤を弱く弾くとサイン波に近い音、強く弾くと倍音が豊かな音が出るので、感覚的にもとても弾きやすい楽器となるのです。そうした考え方の元、新音源システムであるiXA音源においても劇的な音色変化を得るための独自の非線形変調音源を備えたのです。1989年にヤマハからSY77というシンセサイザが発売され、これはPCM音源とFM音源を組み合わせたものでしたが、iXA音源はこれを一歩進めて、PCM音源に加えて当時は電子キーボードの世界では珍しかった、リバーブをはじめ、ディレイ、コーラス、フランジャー、ディストーションなどの複数種類のエフェクトをかけられるDSPを備えました。さらに音源を制御するマイクロコンピューターまでをワンパッケージに収めたカスタムLSIの音源システムを開発し、これを実現したのです。
岩瀬さんが1989年当時に書いていたiXA音源LSIの概要書
--そんなに多くの機能を一つのチップに収めていたのですね。
岩瀬:ただ当時の技術では、デジタルLSIの集積度が低く、現在と1000倍以上の差がありました。これだけ大規模かつ複数種類のデジタル回路をワンパッケージのLSIに収めるためには、トランジスタのひとつひとつ、LSI内部の配線一本一本にまで節約することが求められた時代であり、LSIを製造してくれるパートナー企業といかに良い関係を構築するかが重要な時代でした。今日のリモートワークの時代ではできない仕事の流儀だったと思います。
iXA音源LSI乗算器周辺回路図
iXA音源の心臓部は、ほかの音源システムと同様に、乗算器です。エンベロープでの音量制御をはじめ、非線形音源で波形変調することにも使われています。記述の通り乗算器は回路規模が大きいため、たったひとつの乗算器を、いかにたくさん働かせるかがシステム設計の勘所でした。乗算器の入出力には、四方八方から多種多様な信号線が引き回されています。iXA音源に搭載された非線形変調音源は、iPD音源にも搭載されていましたが、iXA音源に搭載したものは、まったく新規に開発されたもので、FM音源に近い波形変化を作ることができましたが、その仕組み、つまり波形演算アルゴリズムは異なっていました。音のニュアンスとしては、FM音源は基音付近のスペクトルの変化に特徴があり、ギターやベースなどの撥弦楽器が得意な音源だと感じましたが、iXA音源の非線形変調音源は、変調を深くすると、低次から高次までの倍音が滑らかに発生するという特徴があったため、ストリングスやブラスの音が作りやすかったことと、アタック部分にだけPCM音源を使って変調を加えることにより、アコースティックとデジタルの中間的な音を作れるという特徴がありました。
--やはりFM音源はかなり意識されていたようですね。一方で、このころには、各社ともPCM音源搭載のデジタルシンセが次々と開発されていきましたよね。
岩瀬:デジタル楽器草創期は、各社米国のデジタル音源システムの基本特許に苦しめられていましたが、デジタル非線形変調音源については、ヤマハのFM音源に関する特許を意識せざるを得ませんでした。それだけPCM音源全盛を迎えるまでは、有効な技術であり特許だったと思います。カシオでも、iXA音源システムの特許を複数件出願しましたが、時代はPCM音源時代への過渡期であり、ほどなくPCM音源一色になってしまったことが残念です。
非線形音源の特許
そして、iXA音源は、1993年に発売されたCTK-1000に搭載されました。カシオのキーボードの型番は、楽器事業参入以来、CTと名付けられてきましたが、このモデルからCTKと名付けられるようになりました。CTK-1000は、iXA音源の特長であるシンセサイザ的な音作りが可能で、細かいパラメータまではユーザーに公開していませんでしたが、MIDIシステムイクスクルーシブメッセージを使って、社内用に開発したエディタープログラムから制御することができました。10種類のDSPエフェクトをパネルボタンからワンタッチで呼び出せる という特徴に加え、パターンプログラム、マルチトラックメモリ(シーケンサー)、MIDIマルチティンバー音源機能を備えていて、今日のワークステーション的な仕上がりとなっていました。
CTK-1000は当時の最先端を行くシンセサイザキーボードだった
--当時のカシオトーン、甘く見ていましたが、CTK-1000はそんな最新鋭の機能をふんだんに盛り込んだすごいシンセサイザだったんですね。
岩瀬:実はCTK-1000以前に、iXA音源を搭載した、タッチレスポンス無しの製品プロトタイプが存在していましたが、日の目を見ることはありませんでした。先ほどの話の通り、電子キーボードの世界ではタッチレスポンスが当たり前の世の中になりつつあり、iXA音源の特長を最大限引き出す商品企画に変更されたのです。今でもYouTubeで、CTK-1000のデモ音源を聴くことができます。PCM音源が出すドラムやピアノの音は、今日のそれに比べて、波形メモリサイズが小さいサンプリング周波数が低い音だなあ と今更ながら感じますが、非線形音源が出す、ベースやシンセリードの音は今日でも実用に耐える音で、パラメーターをいじれば、変調感が強く過激な今日のダンスミュージックでも通用する音も作れた音源だったと思います。
【関連情報】
カシオ電子楽器40周年サイト