以前DTMステーションで紹介したことのある、IRリバーブ、INSPIRED ACOUSTICS(インスパイアード・アコースティック)社のINSPIRATA(インスピラータ)。このINSPIRATAは、演奏者のポジションと聴く人のリスニングポイントを自由に変更できるという、ほかのリバーブにはない特徴を持っています。しかもホール、スタジオ、教会など定番の残響感を再現するだけでなく、小さい事務所、風呂場、ベッドルーム、地下のガレージ、空港……などなどさまざまな場所も選択可能。
そんなINSPIRATAを開発したCsaba Huszty(チャバ・フスティ)さんは、ハンガリーのブダペストで電気技師として修士号を取得しており、さらに坂本建築音響研究室の客員研究員として東京大学に入り、博士号を取得しています。長年研究開発を行うCsabaさんに以前「演奏者とリスニングポイントを自由に配置できる画期的なIRリバーブ・プラグイン、INSPIRATAの威力」という記事でもメールインタビューしましたが、今回、音響学会のシンポジウム「inter-noise 2023」での発表のために来日したタイミングで、直接お話を伺うことができました。もちろん東京大学出身だけに、日本語もペラペラなチャバさん。同じ研究室出身の指揮者・作編曲家 中島章博さんにも同席していただき、日本語でたっぷりインタビューしてきたので、紹介していきましょう。
究極の次世代イマーシブ・リバーブ・ワークステーションINSPIRATAが完成するまでの軌跡
世界で1つだけのIRリバーブINSPIRATA
--改めてINSPIRATAの特徴について、一般的なIRリバーブと比べた特徴を教えてください。
チャバ:IRベースのリバーブは昔からたくさんあります。ですが、INSPIRATAのようなリバーブはまだほかには存在していないです。INSPIRATAには2つの新しい特徴があり、1つは音源もリスナーもリアルタイムで空間を自由に動かせること。データはすべて測定に基づくものなので、直接音も含め、聴こえるもののグランドトゥルースとなります。2つ目の特徴は、音響デザイナーや音響コンサルタントが新しいホールを設計する際に使用するパラメータを、同じくリアルタイムで空間の音響を調整できることです。私たちは、音楽、オペラ、スピーチなどのリハーサル空間を設計する音響コンサルタントとしても働いていますので、明瞭度(C80)、リスナーエンベロープメント(LEV)、見かけの音源幅(ASW)など、これらのパラメータを毎日使っているのです。INSPIRATAの残響エンジンは、これらのパラメータを変更できるようにしています。こうすることで、空間の響きを自由に変えることができるのです。壁や吸音などの間接的なパラメータを調整するのとは異なり、部屋の響きを直接簡単に変えることができるのです。これは音響コンサルタントの夢であり、ミュージシャンの夢でもありますね。
幼少期から日本語と音響に触れていたチャバさん
--まさに研究者が作った、究極のリバーブですよね。ちなみにチャバさんは、幼少期のころから音楽に興味があったのでしょうか?また日本語もペラペラですが、いつ学んだのですか?
チャバ:6歳のころ、住んでいた地域に1人の日本人ハーフの友達がいました。そんな彼をキッカケに日本語の存在を知り、そこから興味を持ち、日本語を勉強し始めました。ただ、そのころハンガリーには日本語教室などはまったくなく、唯一あったのが大学における日本語コース。だからハンガリー語で勉強できる日本語の教材は、大学の教科書だけでした。両親が買ってきてくれた大学の教科書を使って、1人でひらがなから勉強をスタートしましたね。大学の本で勉強をスタートしたので、最初に覚えた単語は「石器時代」でした(笑)。ただただ興味だけで勉強していたので、目的があったわけでもないんです。でも、日本語の文字はキレイだな、と思いながら勉強していましたね。一方音響などについては、おじいちゃんの影響もあって、ものごころつく前には、すでに生活の一部でした。おじいちゃんは、私が生まれる前に亡くなっているので、会ったことはないのですが、電気音響のサイエンティストで、結構ハンガリーでは有名だったみたいです。楽器には6歳から触れ始め、まずはピアノからで、14歳ごろにはパイプオルガンを弾き始めました。ただ、パイプオルガンは教会に行かないと練習できないので、どうしたらいい音で、家でパイプオルガンを練習できるかが課題でした。当時シンセサイザにパイプオルガンという名前の音は入っていたのですが、あまりにも酷いサウンドだったので、中学生ながら自分でパイプオルガンをサンプリングすることにしました。
中学生のころからパイプオルガンのサンプリングを行っていた
--パイプオルガンのサンプリングを始めるなんて、すごい中学生ですね。
チャバ:パイプオルガンの先生に相談したところ、夜中であれば教会で録音することがOKになったので、1つずつパイプをサンプリングし始めました。マイクは持っていなかったので、知り合いにNEUMANN U87を借りて、デスクトップPCを持ち込んで、ミキサー経由でTurtle Beatchのサウンドカードへと録音しました。最初にC、E♭、G♭、Aというように、どういう風に録ったらよくなるかトライしていきました。しかしどうやって、残響を録音するかという問題にぶつかりました。5秒以下だと、コンサートホールぐらいにしかならないので、教会の音を録るためにはもっと長い音でサンプリングするなど、試行錯誤しました。さらに、響きを録るためにインパルス応答も録り始めました。
--IRリバーブを作ることになるキッカケのようにも感じますね。
チャバ:ですが、そのころはほとんど分からないまま、とにかく試していたので、パッシブスピーカーに大音量を突っ込みすぎて壊したりもしましたね。何度もトライしましたが、理論を勉強していないこともあり失敗続きでした。やはり、キチンと理論を勉強したいと思い、ブダペスト工学大学に入りました。ただハンガリーには、音響工学はなかったので、電気音響の学科に入ったのです。演奏者の道にも入ろうと思ったこともありましたが、練習すること自体が面倒だったので、こっちの道に進みましたね。結果的に、オルガンのサンプリングは成功し、そのころはGigaSamplerの時代だったので、GigaSampler用のライブラリとして発売するところまで持っていきました。この音源、実は今でも売っているNotre Dame de Budapest (NDB) Pipe Organ Samplesという製品です。日本ではまだ販売されていませんが、他にもたくさんあるパイプオルガンの音源も、ぜひ日本のみなさんに使ってほしいですね。
ハンガリーと日本の大学に入り、研究を行う日々
--ブダペスト工学大学に入った後に東京大学に入ったということですか?
チャバ:ブダペスト工学大学を卒業した後に、同じ大学のドクターコースに行きました。そんな日々の中、大学や研究所が忙しくて、日本語の勉強をする時間を取れなかったのは悲しかったですね。そんなこともあり、せっかくこれまで日本語を勉強してきたのだからと、留学することを決めました。卒業後は、室内音響測定の分野で研究を続けていたのですが、日本の文部科学省の奨学金制度に応募してみた結果、給付してもらえることになり、坂本建築音響研究室の客員研究員として東京大学に参加したのです。その後、坂本研の博士課程に入り、2012年に修了しています。主な研究分野は、室内音響の測定方法と室内音響パラメータでした。
--東京大学に入って、どんどんINSPIRATAの完成に近づいていった、と。
チャバ:最初の一番大きい問題は、ノイズがたくさんあるところで、どうすれば長い響きを録るかというものでした。それまでもたくさん研究して博士論文になっているのですが、東大で学んだ後により理論的にきれいな方法を確立させていきました。2004年からずっと、自分のスイープ信号を使って、いろいろなホールや教会の測定を行っていました。日本に来た、2008年のころにはINSPIRATAに入っているインパルス応答の3分の1ぐらいは、もう録れていましたね。録音用に買った最初のアンビソニックマイクロフォンは、Notre Dame de Budapest (NDB) Pipe Organ Samplesの売上で、SOUNDFIELD SPS422Bを買いました。これを測定に使って、このデータは研究データになりました。インパルス応答などあらゆるパラメータをデータベース化していったのです。2008年時点で世界で一番大きいデータベースでしたね。音源の場所、リスナーの場所を細かく変更し測定しているので、スタンダードより何十倍の規模となっており、これがINSPIRATAの原型ですね。
--測定では、ほかにどんな機材を使用していたのでしょうか?
チャバ:録音に使う機材はずっと同じメーカーを使用しています。スピーカーはGENELECを使用しており、最初に壊した1,2台のスピーカーはパッシブだったので、アンプとスピーカーが一体になっているものがいいと思い、また歪みが少ないほうがいいので、GENELEC 8050を選択しました。今はGENELECの3wayスピーカーを使用しています。オーディオインターフェイスは、RME Fireface 800から始まり、今はFireface UFX IIを使用しています。後は、低周波を出すための、サブウーファーを使っています。
リアルタイムに音源を自由に動かすIRリバーブを開発するために自動車メーカーからヒントを得る
--さまざまな測定を行い、データベースができてきましたが、その後INSPIRATAはどう完成していったのでしょうか?
チャバ:データはたくさんあったのですが、それは簡単には製品になりませんでした。さまざまな問題があり、これまで、どこからもINSPIRATAのように音源やリスナーの位置を変えられるIRリバーブが出てこなかったのも納得できます。中身はめちゃくちゃ難しいことをしているんですよ。当時うまくいかなかったし、お金もそんなになかったので、ハンガリーで実施している、国からの補助金を使って予算や人を投入し、INSPIRATAは完成させました。ただ、そこにもたくさん大変なことがあり、まずその補助金の制度がプロトタイプを作成したら、すぐ発売しないといけないし、プロジェクト失敗したらお金は全部返さないといけなかったりでした。この補助金もなかなか申請が通らないものだったのですが、なぜか通ったので、ここから一気に開発が進んでいきました。2012年にハンガリーに帰ってきて、その後2016年ごろの話ですね。
--補助金もうまく使って、開発が加速していったとのことですが、それでも簡単な話ではないですよね…。
チャバ:最初のミーティングで、音源を自由に動かしたい、動くときはオートメーションできて、リアルタイムで動くものにしたいと、ウチの会社のプログラマの人たちに伝えたら、みんなどんどん顔が引き攣っていきましたね(笑)。最初は絶対無理だという空気感でしたよ。できるかどうか分からなかったので、かなりリスクの高い賭けですよね。補助金のこともあり、期間は2年と決まっていて、最初の1年は研究のみにすべてを注ぎ込みました。後半の1年で、ソフトウェア化していったのですが、さまざまな問題があったりして、研究も同時並行で進めていました。たとえば、プロセッサの中でタイミングを揃えたり、マルチスレッドの動かし方など、CPUを効率よく動かす方法なども模索しました。ちょうどそのころ、自動車メーカーのボルボが開発したアルゴリズムがあったりしたので、これを参考にしてプロセッサの動きを研究したりもしましたね。リソースマネジメントに関しては、自動車メーカーがこの分野に長けており、車の各パーツの制御をどう効率化するか、研究を結構出しているので、音響とまったく関係ないですが、これも重要な点でした。
INSPIRATAは、日本語、中国語、韓国語、ハンガリー語、ドイツ語、英語に対応
--マルチスレッドの研究までも必要になってくるんですね。
チャバ:たとえば今INSPIRATAをDAWに2つ立ち上げると、その2つは裏側で連携します。計算のために連携する必要があり、マルチで計算を行っています。また、リバーブのルームを変更したときに、「バツッ」というノイズが発生すると、それぞれを比較できないので、スムーズに切り替えられるようにするなど、細かい点にも気を使って開発しました。そして、さまざまな問題を乗り越えて、日本では2022年の3月にリリースすることができました。プラグインのインターフェイスは、日本語にも対応しており、これは最初から構想していました。国際的なプラグインにしたかったので、日本語、中国語、韓国語、ハンガリー語、ドイツ語、英語に対応しています。言語に関しては、次のアップデートでは誰でもローカライズできるようにして、もっとみなさんが使いやすいプラグインにしたいと思っています。
--あらゆる言語に対応していますが、世界の反応はいかがですか?
チャバ:詳しいことはいえないですが、映画などでも活用されています。また先日行ったセールでは、サーバーダウンするほどのアクセスを世界中からいただきました。特に日本は、世界1位のダウンロードデータ量で、次にヨーロッパ、アメリカでした。システムは変えたので、もうサーバーダウンすることはありません。日本のみなさん、そのときはごめんなさい。でも、楽しんで使ってもらえると嬉しいです。
バージョン2では、より自由で面白いINSPIRATAに進化する
--最後に、今後のアップデートなど、この先の展望を教えてください。
チャバ:今使ってもらっている人のためにちょっとでもINSPIRATAをよくしていって、同時にバージョン2の開発を行っていこうと思っています。今のバージョン1では、特定の環境下でエラーが出てしまったりするので、リリースする前にもっとテストしたいですね。ほとんどのDAWは持っているので検証できるのですが、PCはさまざまなものがあるので、これにもっと時間を掛けられるようにしたいです。使いやすさ、パフォーマンスの向上はもちろんで、まだ研究段階で実装できるかわからないですが、新機能も考えています。それは遮音のシミュレーションです。部屋の中から外の音が聴こえる感じを再現したいですね。さらには、ステージにもっとズームして細かく動かしたり、マイクのポジションをもっと増やしたりしたいです。またDAWで複数INSPIRATAを立ち上げた場合、1つの画面からほかのトラックを見えるようにして、オーケストラを配置できるといった機能も考えています。それから、日本のホールも測定して、ライブラリを増やしていきたいですね。ほかにも、水の中といったものも実装予定です。まだ、構想段階でどこまで実装できるか分かりませんが、Inspirataはまだまだ進化していく予定なので、ぜひ応援よろしくお願いいたします。
【関連情報】
INSPIRATA製品情報
【価格チェック&購入】
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