乃木坂46、嵐、家入レオ、中島美嘉などを手がける杉山勝彦さんがトッププロとして活躍し続けられている理由

乃木坂46家入レオ中島美嘉…をはじめ、2017年にはレコード大賞作曲賞を受賞している、作詞家、作曲家、編曲家でミュージシャンでもありプロデューサーである杉山勝彦(@sugisansugisan)さん。現在は作曲家事務所CoWRITEを設立し、ソングライティングスクールCoLABを開校するなど、作家の育成にも力を入れています。そんな杉山さんに先日お会いした際、生い立ちから音楽の世界に進んだ経緯、その後どうしてヒット作を次々と出し続けられているのかなど、さまざまなお話を伺うことができました。

もちろんプロと名乗るには、「音楽で稼ぐ」ということが前提となるわけですが、杉山さんの場合、大学生時代にJASRAC(一般社団法人日本音楽著作権協会)と契約をして、しっかりした収入を得ていたのだとか……。JASRACについては、「JASRACはDTMユーザーにとって敵か味方か!?突撃取材を試みてみた」という記事でも現状を紹介していますが、やはり「音楽で稼ぐ」上で重要なキーであることは間違いなさそうです。そんなJASRACに関する話も含め、いろいろな話が飛び出したのですが、インタビューしてみると想像以上に面白い話題がいっぱい。1回に収まりきらないため、今回と次回の2回に分けてお送りします。

杉山勝彦さんにインタビュー

修学旅行のバスで、カラオケを歌ったら褒められたので音楽を始めた

ーーまずは、杉山さんが音楽をはじめたきっかけについて教えてください。
杉山:母がピアノの教師で、幼稚園時代にピアノを習いに行っていたのがスタートです。ただ、それは1年も経たないうちに辞めてしまいました。その後、中学生になるまで楽器を弾いたりすることもなかったのですが、音楽をはじめるきっかけとなったのは、修学旅行のバスでカラオケを歌った際、予想以上に周りの子たちにウケたことでした。中学生ぐらいのときって、ちやほやされるとすぐ調子に乗るじゃないですか、そこで「俺って才能あるのかも!」みたいな馬鹿な思い込みで、家で歌を練習するようになったんです。もっと上手くなりたくて練習をしていたわけなのですが、先に本格的に音楽を始めていた2人の兄が、下手なカラオケを歌っている弟を見兼ねてアドバイスしてくれたんですよね。当時Mr.Childrenをよく聴いて歌っていたから、「櫻井さんだってギターを持ちながら歌ってんだから、お前もギターを練習しな」と。それで、YAMAHAの安いアコースティックギターを渡してくれたのですが、ギターを弾けても披露する場所はないし、指も痛くなるし、面白くなくて、あまり真剣にやらなかったんですよね。その後、高校に入り、兄がこのままじゃダメだなと感じたらしく、近所に良いギターの先生がいるみたいだから見に行こうと誘ってくれて、それがきっかけで音楽に目覚めたんですよ。

ーーその先生が杉山さんにとって大きなキッカケになった、ということですね。
杉山:先生は、レスポールをマーシャルに繋いでいたのですが、その時、初めて大きい音で上手い人が演奏するのを生で聴いたんです。そこで、「こんなカッコいいものがこの世にはあるのか」と衝撃を受けました。もうその足で、貯金をおろして、御茶ノ水にフェンダー・ストラトのスターターセットみたいなのを買いに行き、アイバニーズのアンプに繋いで練習を始めました。それまでの、アコギを弾きながらカラオケを歌うみたいなこととは全然モチベーションが違って、ギターを抱えながら寝落ちするぐらいの勢いで、真剣に練習するようになったんです。

ーー幼少期から周りに音楽が溢れていたのですか?
杉山:僕は、埼玉県の入間市という片田舎で育ったので、環境的に音楽が溢れていたわけでないし、バンド音楽やDTMの機材のお店とかがあるような街ではなかったですね。ただ、兄が優秀だったんです。一番上の兄は、今月から東大の教授になって、真ん中の兄も僕よりも優秀で。当時、その2人の兄が先に音楽にちゃんと臨んでいたというのは大きいですね。家自体は、古い考え方で、長男を大切にする家庭だったんですよ。僕は末っ子なので、雑な扱いを受けていて、そういった年功序列っておかしいなとずっと思っていました。「黒いモチベーション」と僕は言っているのですが、こういう年功序列などの影響を受ける仕事には、将来、絶対に就きたくないという気持ちと、ギターの先生のかっこよさの「白いモチベーション」、ちょうど白黒揃ったんです。音楽は若くして成功できるし、年齢関係なく、リスナーをどう惹きつけるか、どれだけの人を感動させられるか、です。なので、高校生のときには、「あとはプロになるだけ」と本気で決めました。

レコード大賞作曲賞、優秀作品賞を受賞している

高校生のときには音楽で生きていくと決めていた

ーー高校生のときにプロになると決めたといっても、実際にそれを叶えるのって、そう簡単なことではないですよね?
杉山:そのころが大きい転機で、そこから普通の人が悩む進路やキャリアという問題が自分にはなく、あとは「飯が食えるか食えないか」だけでした。現在は、アーティスト活動、作詞作曲編曲、作家事務所の代表など、仕事内容は多岐に渡っているのですが、やっぱり音楽で食える、という部分は重視しています。プロということは一番大事で、国家資格があるわけではないので、今年のリリースがなければ、それは自称作曲家になってしまうと思っているんです。なので来年のリリースが決まったりすると安心するんですよね。来年もまだ、プロでいられると。

ーーその後、高校ではどんな生活を送っていたのですか?
杉山:高校では、軽音部がなかったので吹奏楽部に入り、ベースを弾いていました。また部活とは別に、有志でバンドを組んだりしていましたね。兄から「食っていけるようになるには、曲も書けるようにならないと」、と 言われたことから、高校1年生のころから作曲もスタートしていました。

ーー作曲は譜面に書いていくといった形だったんですか?
杉山:高校2年生のころまで、同じ学校にいた兄が組んでいたバンドに入って、文化祭で披露したりしていたんです。とっても上手いメンバーが集まっていたけれど、先輩のバンドだったので、当然のことながら先に卒業してしまう。3年生の最後の文化祭で卒業した先輩を呼んで…というのは嫌だったので、新しくバンドを作ろうと思ったんです。とはいえ、しっかり演奏できるようなメンバーは校内では見つからない。こうなったら、同級生でいわゆる寄せ集めでバンドを作り、1年間でなんとかするしかない。文化祭が1年間で1番楽しい日ですから、どうにかするしかないと。文化祭に有志のバンドとして参加するには、結構早いうちにデモテープを提出する必要があったんですね。ですが、寄せ集めのバンドなので、そんな音源、到底作ることはできない。そこで、自分で多重録音して、デモテープを提出することにしたんですよ。それが、DTMをはじめたきっかけですね。

中学生で音楽に出会い、高校生でプロを目指し始めたという

--当時はどんな機材を使っていたんですか?
杉山:YAMAHAのQY300を使っていました。兄がCubasisを持っていて、それを使ったり、無料のソフトを駆使してレコーディングをしていましたね。竿ものは自分で弾いて、ボーカルやコーラスも全部自分で歌って…。結果、文化祭に向けてオリジナル曲を3曲書いて、無事デモテープ審査も通過。その間、みんな真剣に練習して、文化祭は大成功でした。今聴いても、メロディーはよくできていると思いますが、歌詞はゴミですね(苦笑)。文化祭が9月ぐらいだったので、次にやってくるのが受験です。まさに偏差値40くらいのレベルからの受験。4ヶ月くらいしかない中、歯を食いしばって勉強しました。昔から逆算する考えで、4ヶ月しかない中、どうすれば受かるのか。回答を書くためのゲームと捉えた上で効率よく勉強して、なんとか希望の建築学科に合格することができました。

大学で入ったアカペラサークル

--とはいえ、普通の人では、そう簡単に入れない早稲田の工学部ですよね。
杉山:要領がいいんだとは思います。ただ、音楽で食っていく、と決めていたので、大学は実質的には単なる肩書きと人脈形成としか考えていませんでした。もっとも早稲田大学理工学部建築学科の仲間たちは、みんな優秀だし、自分を持っているすごい奴ばかり。今でも交流は続いています。高校生ぐらいまでは、「音楽で食っていく」という人の夢を馬鹿にしてくる人は多かったのですが、早稲田に入ってからの友達は応援してくれる人が多かったんですよ。サークルは、フュージョンマニアというインストバンドのサークルと、アカペラサークルの2つに在籍していました。フュージョンマニアに僕が入ったときの3年生の先輩が上手すぎて、今もスタジオミュージシャンの第一線で活躍している方なのですが、この人と同じポジションで争うのは無理だなと思ったんです。それでも情熱はあったので、2年間ぐらいそのサークルにいて、インストの音楽とかをギターで一生懸命追いかけていくことはしました。

ーー一方、アカペラのサークルはどうだったのですか?
杉山:ちょうどハモネプが流行り始めたころで、ゴスペラーズさんを輩出したサークルでもあるので、盛り上がっていたんですよ。紅白にゴスペラーズさんが出るタイミングでもあったので、テレビからのオファーなんかもあったときでした。そこのアカペラサークルの人たちも、プロ志向の人が多くて、今Little Glee Monsterの音楽監督で、INSPiというアカペラメジャーアーティストの吉田圭介くんもいましたね。彼とは最初インストバンドのサークルで出会ってバンドを組んでいて、アカペラの話をしたときに、彼はLowBまで出たので、アカペラサークルに引っ張っていったら、気づいたらプロとして活動していました。アカペラサークルは、業界とも近くて、そこにいて本当によかったと思っています。僕自身がJASRACさんと契約するようになったのもこの時期ですね。

大学生時代にJASRACと契約

ーーどういった経緯でJASRACと契約するようになったのですか?
杉山:大学2年生のころ、後輩の親戚が渋谷近くのアパレル店で働いていて、そこではよくNHKの音楽をつける人も来るパーティーが開かれているということを知ったんです。めっちゃおいしいタイミングじゃん、行かせてよと言って、そのパーティーにちゃんとアカペラが歌えるグループで行ったんですよ。大学生だし、恥かいてもいいよね、と余興でそのころ流行りの曲を歌ったりして…。そしたらそのNHKの音楽をつけている方がお声がけくださって、「曲も書けるの?」と。名刺を受け取って、1週間後に送ってきてと言われたので、そこから曲を書くのですが、録音機材は高校当時から進化していなかったので、速攻でハードディスクレコーダーを買いに行きました。たしかRolandのVS-1680だったと思います。そして、なんとか送ったら、「プロとは呼べないけど、センスはあるみたいだね」と言ってくださり、テレビで流してくれたんですよ。でも、それじゃ、お金入らないじゃないですか。だからまったく意味ないと思って、クレーム入れたんですよ。もっと稼げるのないですかって。そしたら、本当にバカねって感じで可愛がってくれて、コンペの話をいただけたんです。

杉山勝彦さんの作業環境

ーー大学生のころからすごいですね。普通ならNHKで流れただけで有頂天になると思いますが、稼ぐことが重要だ、と。
杉山:教育テレビ系のコンペだったのですが、周りは全員プロ。普通に挑んだら、絶対に敵わないだろうからまずは敵を知ろうと思い、教育テレビをバーっと観るわけですよ。すると、共通点が見えてきて、どれもきれいに教育テレビらしい優秀なインストが流れているんですよね。だから、その路線はライバルが多い。自分の技術と音質では絶対に敵わないので、逆で勝負するしかない。そこで、その番組に媚びまくる歌詞を書いて、歌って送ったら、なんか面白いということで採用になったんですよね。当時JASRACさんと契約するのは、個人ではすごくハードル高かったのですが、地上波の番組テーマに使われたので条件を満たすことができ、出版社とか作家事務所とか所属していなかったのですが、最初から個人で契約することになったんです。

ーーかなりレアなケースですよね。最初からJASRACという存在は知っていたのですか?
杉山:いいえ、そのNHKの音楽をつける方が教えてくれたんです。契約したときには、すごいラッキーだよ、普通はあんたみたいなの契約できないんだから、って言われましたね。その後もまたチャンスをくださり、「趣味の園芸」という番組のオープニングだったのですが、OKが出て、印税をいただける案件が取れたということがありました。一方で大学院は半年で辞めてしまいました。音楽ばかりに集中していたので、大学院での勉強についていけなくなって、ゼミの進行を止めてしまったこともあり、周りの友達にもよくないなって。で、大学院を辞めた後、音楽に集中していくわけですが、いくら学生時代に仕事を貰えたからって、それだけでは話にならなかったので、投資を始めて、お金を気にせず音楽に没頭できる環境を作っていったんです。

ーー投資ですか!?

次回に続く

JASRAC公式YouTubeチャンネルで杉山さんが出演したAkira Sunsetさんとの対談動画を公開中です。合わせてごらんください。

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