今や世界でも有数の経営者として注目を集めている任天堂社長の岩田聡さん。その岩田さんはプログラマ・エンジニアであったということをご存知ですか?しかも超がつく天才級のエンジニアであったということを。1982~1983年、その岩田さんが新入社員だった時代、当時高校2年生だった私、藤本健といっしょに開発したDTMソフト、およびハードというものがあるんです。
先日、実家の大掃除をしていたら、その当時のものがいろいろと出てきました。HAL研究所という会社にいた岩田さんと私で書いたプログラムのソースリストや、その後製品として発売されたハードウェアに、パンフレット……。今や貴重な資料かもしれないので、少し紹介してみましょう。
任天堂社長の岩田さんの経歴については、いろいろな書物で紹介されているので、そちらに譲りますが、最初から任天堂の社員だったわけではありません。当時、私が憧れていた東京工業大学(結局入れませんでしたが)を卒業後、1982年にHAL研究所という、5、6人の小さな小さなベンチャー企業に入社しているのです。学生時代からアルバイトで仕事をされていたようなので、入社した時点ではすでに実力ナンバーワンのエンジニアだったわけですが…。
一方、私は高校に入学した際、お年玉を貯めて購入したNECのPC-8001という8bitのパソコン(当時はマイコンって呼ばれていました)でプログラミングに明け暮れる日々を送っていました。そう当時、現役で活動していたYMOが使っているシステムのようなものを作れないかと、学校の勉強はそっちのけで、ハードウェア技術やアセンブラなどを一生懸命に勉強していました。その結果、高校2年の夏休みに、PC-8001用の音源とそれをコントロールするプログラムが完成したのです。もちろん、今から考えれば、すごく原始的なものですけれどね。
高校生ながら「これは自分だけで使うのはもったいない。売れるのでは!?」と考え、夏休みに当時のパソコン雑誌の広告を見ながら、周辺機器メーカーなどに電話をかけて営業に行ったのです。ガキのくせにたいした度胸だったなぁ…と。5社くらい回ったうちの1社がHAL研究所、本命だったのです。
秋葉原にあったHAL研究所で、岩田さんほか数名にプレゼンをした結果、OKをもらい、いっしょに製品化をしていこう、ということに決まったのです。そのとき、持っていったハードウェアは、GIというメーカーのPSG(Programable Sound Generator:正確にはAY-3-8910)というチップを中心に据えてPC-8001と接続できるようにしたボードと、それをコントロールするためのプログラムです。といっても、いわゆるシーケンサプログラムというわけではなくて、PC-8001に搭載されていたBASIC言語を拡張して「PLAY文」、「SOUND文」を使えるようにした、というトリッキーなものでした。
その後、秋になってからPC-8001だけでなく、PC-8801でも使えるようにしよう、と設計を変更したり、PSGチップも1つだけでなく2つ搭載すれば6音ポリになるので、より商品価値が上がるはず…などと議論したり、開発が進められたりしていき、翌年明けに発売されることになったのです。それが「GSX-8800」という製品です。General Sound eXpanderの略というものでした。
HAL研究所に持ち込んでからは、基本的に岩田さんにお任せという感じでしたが、やはり驚きも大きかったのです。というのも、私が何週間もかけて作ったプログラムを岩田さんに渡すと、数日後にはバグのない非常にキレイなプログラムに仕立て直してくれるのです。こっそり埋め込んでいた隠しコマンドなども全部発見されて、消されてしまっているんですよね。
その後、大学2、3年生までHAL研究所でお世話になりました。その間、会社はどんどんと大きくなっていき、取締役技術部長となった岩田さんは、私にとってはまさに尊敬する大先輩でした。その技術力のすごさ、頭の良さを目の当たりにして、「自分はエンジニアには向かない」と確信したのも岩田さんのおかげですね。ほかにプロのエンジニアを知らなかったので、別の人と会っていたら、私もまた違った人生を送っていたのかもしれませんが……。
ただ、当時疑問だったのは、東工大を卒業し、そんな頭のいい人が、何でそんなに小さな会社に入って仕事をしているのか、ということでした。が結局、HAL研究所は岩田さんの腕を買われて任天堂傘下となり、その後、社長まで登り詰めてしまうわけですから、すごいですよね。
ちなみに、不義理にも私はその後、岩田さんとはお会いできていません…。さすがに偉くなられすぎたので、現在お目にかかること自体難しいわけですが、いつか当時の話ができたら楽しいだろうな、なんて思っています。